亀山さんに会ってきました! 〜まじめにまとめたバージョン〜

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2012年4月6日(金)。なんでもないただの週末。これまでGW、お盆、お祭り、正月と特別な時に山田町に帰省していましたが、なんでもない日に帰ってみたいと思って帰省してみることにしました。
そう思い立った数日前、とある方のご紹介で山田町に住む74歳の亀山さんをFacebookで紹介いただきました。「山田じゃ大人がパソコンやるのさえ珍しいのに74歳の方がFacebookを?!」と半信半疑ではありました(笑)
これもご縁と思い、亀山さんに会うことが今回の帰省の最大の目的となりました。

仮設の番号をFacebookのメッセージでもらい訪れたところ、奥さんが玄関で迎えて迎え入れてくださいました。
こたつでコーヒーを淹れていただき、いろんなお話しをしていただきました。
※私なりに理解して書いたつもりではおりますが、亀山さんが仰りたかったことと違う解釈があるかもしれません。その場合は追って訂正させていただきますので、予めご了承ください。

■震災当時のこと
地震が発生したとき、亀山さんは海岸近くの作業場にいたようです。津波の警報がなり奥さんと急いで御蔵山へと避難したのですが、船を沖に逃がさないと岸壁にぶつかったり座礁したりするため、御蔵山を降りて船へと向かったそうです。船にエンジンを入れて進み出そうとした時には既に津波の一波が押し寄せてきており、400馬力のエンジンでも前に進むことができず、波に呑まれた作業小屋の上付近で津波が弱まるのを待つしか出来なかったそうです。その間、周りには渦が起こっていて小さな船はその渦の中でグルグルと回る異様な光景だったそうです。
一波が時期に引く。大抵、津波の引き波の時には海底が見えるまで引くもののようですが、今回は第二波が大きかったためか幸いにも完全に引き切らなかったようです。
徐々に潮位が戻ったところで、一気に山田湾の真ん中に浮かぶ大島の裏手まで進む。山田町が津波に呑まれる光景を、そこから眺めることしかできなかったようです。

津波が引いた後、岸壁に船を着けることはことはできず、このまま2日間を船上で過ごすことに。船にはあめ玉が3つだけ。途中、水などの分け合いを求めるも極限の中ではなかなか助けてくれる方もいなかったようです。そんな中、栄養ドリンクを投げ込んでくださった方がいて、しのぐことが出来たようです。

2日後、どうにか丘に上がることができた。奥さんの消息を求め、急いで役場に。そこの名簿には奥さんの名前が!しかし町内で発生した火災から逃れ、10キロ強ほどある豊間根地区に避難したとのこと。役場でおにぎりを一つもらったけど奥さんがお腹をすかせているだろうとポケットにしまい、疲れも忘れて豊間根へと向かったそうです。
豊間根の避難所について避難名簿を確認するもそこには奥さんの名前はなく。今一度、山田に戻って避難所を巡ったそうです。その間、知り合いからおにぎり、水、マフラーなどをもらったようですが、食べ物は全てポケットにしまい込んで奥さんを捜しつづけたそうです。

最後と思って行った避難所にも奥さんは見つからず。亀山さんはそこであきらめ、奥さんが居なければ生きている意味が無いと船で死ぬことを覚悟したそうです。その船に向かう途中、一人の知り合いに会い最初にいった豊間根の避難所で奥さんを見かけたとのこと!もう一度豊間根へ!!
避難所に着くと、なんと、奥さんが、、、お菓子をほお張りながらお出迎えされたそうです笑
がんばっただけにいかりもあったみたいですが(笑)、安堵から腰が抜けたそうです。


■漁業について
亀山さんは以前は漁船に乗っていたようですが、現在は八重丸という船で団体釣り人向けに遊漁船をやっていらっしゃいます。パソコンで八重丸の釣果などを見せてくださいました。
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平成20年の釣果一覧 | 岩手県遊漁船業協会
ご覧いただいて写真があるものはほとんどが亀山さんの船でのものです。ちょっと自分の仕事にも絡む話しなのですが、この当時写真を釣果情報に載せていたのは亀山さんくらいだったそうです。今でこそ写真を載せると注目を引きやすいというテクニックが当たり前となっていますが、そういった情報が無い中で、どうやったら注目を集めることができるか?より魅力を感じてもらえるか?を亀山さんは自分の知恵で考えついたんです。普段からそういったことを考えなければならないのが私の仕事ですけど、そういった発想をもたれているところを単純にすごいと思いました。
これって当たり前のようで、型にとらわれず本質的な部分を求めて行動された結果で、この後に聞くことが出来たお話しの源泉はこの考え方に起因しているのかなって、今思います。

話しはそれましたがこういった遊漁船の話しから山田町の漁業の話しへとなりました。
山田町には漁業組合というものがあり、漁業関係者の多くがこの漁業組合の組合員となります。漁師さんがワカメを水揚げしたりするシーンなどはイメージいただけるかと思いますが、あくまでも共同権のようなもので漁業権の共有、漁獲物の販売、共同購入などが組合の仕組みで、漁師さんが採ったワカメは組合のものとなります。
あとひとつ重要なこととして教えていただいたのが、山田町の漁業は大きくわけて養殖業と漁船漁業に別れるという部分です。養殖業は比較的道具の支援も入りやすく復活に向けて進んでいけてるけど、漁船漁業は沖に出たまま丘に置いていた道具が流され、道具も高いためなかなか復活に進んでいってないとのことでした。震災があった3月頃だとイサダ漁の道具を積んで震災にあったためその道具で今は漁を行えますが、もうじきイサダの時期が終わる。そうなると次の漁が出来ないような状態のようです。
私自身山田湾に浮かぶ大きな漁船を見て、それなりに船が残ったんだなーと安心してましたが、現状はかなり厳しいようで廃業に追い込まれる方も出てきているようです。
いろいろとしがらみもあるようで、私もちゃんと理解は出来てませんが、このままでは漁船漁業がダメになってしまうことも危惧されます。新たな漁船漁業の枠組みを企業資本なども視野に入れて、本気で模索しなければならないのではと亀山さんは訴えていらっしゃいました。

話しはちょっとそれますが、例えばタラを山田町の漁船が採り宮古市に水揚げするということも多いようです。その理由は「宮古産の方がブランド力があって高く売れるから」というものです。山田町のブランドを作り上げるように本気で考えないと漁業がダメになると仰っていました。また、仕事のやり方自体も工夫が必要。今は震災もあって小さい子が漁業を継ぎたいといっているけど、朝早く起きて夜に終わる仕事に魅力があるか?言葉を返れば効率化という部分ですね。そういった観点でも亀山さんは漁業を危惧されていました。


■仮設と自宅
震災直後からしばらくの間、自宅が残った人は同じく被災者でありながら、なかなか支援を受けられない日々が続きました。私自身、家が残りましたが母親からは「自宅に居てみんなに無視されているような気持ちになる」と言った言葉や、姉からは「物資をもらいに行くと『家が残ったんだから我慢しろ』って言われる」といった話しを聞いていました。

冒頭にも書きましたが、亀山さんは仮設に奥さんと住まわれています。その仮設の代表を亀山さんは務められています。その中で亀山さんは早くから「仮設の人も家が残った人も関係ない」という考え方でおられ、亀山さんが住む仮設の周りの住民の人にはどういった支援がいつくるかというのを掲示板に張り出して、関係なく来てくださいと伝えているそうです。ただ、一緒に避難訓練にも参加するように呼びかけているようです。時には物資の配給のなどの中で家が残った人が来ることに文句を言う人がいれば、はっきりと怒鳴りつけるようです。

こういった話しを聞いて、なにより自宅が残った人間として救われた気持ちになりました。私自身、母親や姉の言葉は一部では話してもおおっぴらには言うことが出来ませんでした。仮設に住む方にこのような気持ちでいらっしゃる方もいることが本当にうれしかったです。


■山田町の復興に向けて
仮設だから、自宅だからと言っていては復興はなく、みんなで協力していく必要があります。そういったことを本質的に理解されているからこその上記のような行動をされているのだと思います。また、仮設に住む人からの追い炊きがないなどの要望については、何億も使って一時しのぎのものに金を使うなら別なものに使った方がいいとも仰っていました。仮設の人には申し訳ないと思いながらも、私も同意です。これも言葉を返れば費用対効果というものになりますが、我慢するところは我慢していかなければならないと思います。そして、自宅に住む方も仮設の方々の状況は尊重して、一時期のすげさみは忘れもう一度分け隔てなく、考え、協力していく必要があると思います。
亀山さんの住む仮設とその周辺住宅は、住む人を含めそのモデルケースなんじゃないかと思います。実際、亀山さんのこういった考えのためか、雪が降れば何の声がけもなくみんなで雪かきが始まるみたいです。場所によっては自分ちの前だけだったり、だれかがやってくれるのを待ったりするところもあるようです。

亀山さん宅を出て散歩しながら「るぽ」という仮設店舗の喫茶店にいったのですが、そこにいらっしゃった奥様たちともお話しをすることができました。話しの中では織笠地区の集団移転の話しもありました。町長の出身地だから早急に事が進んでいるという噂もありますが、住民が議論を重ねて決定出来たのが何よりも大きいという話しもきけました。町長などへの不満の意見はよく聞きますし、私自身しっかりしてくれよと思う部分がありましたが、亀山さんからは「人なんだから得意、不得意がある。不得意な部分を責めても始まらないんだから、不得意な部分を役場の人間だけじゃなくて町民も理解して協力していった方がいいんじゃないか?」という言葉をいただき、自分がちょっと恥ずかしくなりました。

不満を言うだけではなく、その不満を解消するためにどうすることができるかを一人一人が考えること。私も含め、ちょっとずつみんながそう変わっていく必要があるのかなと思いました。蛇足ではあるものの「るぽ」では奥さんたちから色んな言葉が発せられていました。亀山さんから「ここに来ると色んな意見が聞けておもしろい」と行く前に聞いていた通りでした。こういった声をなかなか発さない奥ゆかしさというか文化というか、そういったものが山田にはあるのかなって気がします。その辺、もっと声を出していこうというのは、亀山さんが何度もおっしゃっていたことでした。自分としてはそういった声を少しでも拾って上手く伝えていけたらなって思いました。


■亀山さんが今もっとも必要と感じていること
復興のために声を上げていく必要があるとは仰ってますが、なによりもまずは声を出すゲンキがなければならないと。そのためにも、被災地以外に住む方には、可能な限り被災地を訪れて話しを聞いてやってほしいと仰ってました。みんな家にいてだまってたら言いたいことも言えずに前に進めないと。例えば亀山さんは人が来ると奥さんに料理を作らせるらしいです。みんな美味しい美味しいと食べてくれる。そうすると奥さんも笑顔になるようです。そういったやりとりが震災というものをほんの一時的にも忘れさせてくれるようです。
岩手県山田町って本当に東京からかなり遠い位置にあって不便なところです。出身者が言うんだから間違いないです笑 そんなところに来てくれとは言い難いものの、言って話しを聞いてあげるだけで救われる方がまだまだいらっしゃいます。それも復興に向けた重要な支援なのかなと思います。



最後に、亀山さんには失礼ないい方になってしまうかもしれませんが、山田町という保守的な町において、亀山さんという存在は異質な存在かもしれません。ただ、それは同じような考え方の人が少ないというだけで、オレ自身は亀山さんの考え方には大いに賛同します。本気で山田町を復興させて未来を描くのであれば、震災前の考えていちゃだめ。漁業だけでなく様々な仕組みをよりよいものにしていけるように、みんなが亀山さんのように本気になって自分なりに考えて、時には意見し合っていかなきゃです。




つらつらとマジメに書きましたが、この間、ほぼ丸一日亀山さんにはお時間をいただき、仮設から散歩に出て、船を見たり、岸壁あるいたり、るぽにいってお茶して、梅之家でご飯食って、満月の写真を二人で必死に撮ってと(笑)、夜まで一緒に過ごしました。
オレ的には当時無碍に扱っていた死んだおじいやんとのひと時のような、とっても充実した気分の一日でもありました。
次回はもうちょい砕けた内容も交えつつ、亀山さんの魅力というかをお伝えしたいと思います★

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このページは、daikick634が2012年4月19日 00:16に書いたブログ記事です。

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